タイトル
アラバマ物語(原題:To Kill a Mockingbird)
概要
1962年のアメリカ映画
上映時間は129分
あらすじ
1930年代のアラバマ州の田舎町では、黒人のトム・ロビンソンが白人女性メイエラを暴行したとして裁判が行われることになった。弁護士のアティカスは判事からの依頼を受け、町中の白人が黒人の弁護をすることに反対する中、トムの弁護を引き受ける。
スタッフ
監督はロバート・マリガン
音楽はエルマー・バーンスタイン
撮影はラッセル・ハーラン
キャスト
グレゴリー・ペック(アティカス・フィンチ)
メアリー・バダム(スカウト)
フィリップ・アルフォード(ジェム)
ブロック・ピーターズ(トム・ロビンソン)
ロバート・デュヴァル(ブー)
感想
1960年にハーパー・リーが発表した小説の映画化。原題は「To Kill a Mockingbird」であり、直訳すると「マネシツグミを殺すには」となる。マネシツグミとはアメリカ大陸に生息する鳥で、鳴きまねが得意なことからこのような名前が付けられているそうだ。アカデミー賞では主演男優賞含む3部門を受賞したが、作品賞は「アラビアのロレンス(1962)」の前に敗れた。スカウトを演じたメアリー・バダムは、アカデミー賞助演女優賞の部門では当時史上最年少でのノミネートだった。また、ブーを演じたロバート・デュヴァルは本作がデビュー作である。
裁判映画であるが、他の裁判映画であまり見かけない光景もある。例えば、証人が座る席は判事の目の前であり、しかも証人は傍聴席の側を向いて座っているので、判事からは証人がどのような表情で話しているのかを確認することができない。他の映画だと証人は判事の席の左か右の席に座ることが多い印象である。それに、弁護士や検事が証人に質問している間、お互いが異議を唱えることもない。いつもの裁判映画なら、少しでも質問の意図が不明瞭だったり、関係ない質問だったりすると、「意義あり!」と言って、判事が「認める」とか「却下する」というのが定番である。さらには、陪審員は裁判所の中の部屋で評決を出すのではなく、どこか違う建物で話し合っている。彼らが建物を出る場面はないが、裁判所に戻って来る場面がある。おそらくアラバマ州の小さな町だから裁判所内にいくつも部屋がないのだろう。もちろん州や時代によって裁判の形式も異なるだろうが、なかなかお目にかかれないシーンがあるだけでも貴重である。
本作の序盤からの展開は基本的に子供のスカウト視点で語られていく。スカウトは子供故に「過ち」を繰り返していく。何でもかんでも正直に言ってしまい、同じクラスの男のことを「貧乏だ」と言って後に先生に叱られたと話す場面がある。スカウトは、自分と違うという意味でその男の子のことを貧乏であると言っただけだったのだろう。それが原因でその男の子が傷つくとかそんなことまで考えていない。だからこそ、アティカスが「相手の靴を履いてみなさい=相手の立場に立って考えなさい」と教育している。白人に生まれるか、黒人に生まれるか、男に生まれるか、女に生まれるか、裕福な家庭に生まれるか、貧乏な家庭に生まれるか、それは本人に選択することはできないのだ。アティカスは公平さを信念にしており、それを表すのがアティカスの家にいるキャルパニアというお手伝いさんでもある。アティカスの妻が亡くなっていることも影響はあるだろうが、黒人のお手伝いさんがスカウトを叱りつけている(南部の他の家庭では珍しいだろう)。おそらくアティカスがキャルパニアにも平等に接し、子供へ接する姿勢も同じものを求めていることが読み取れる。
そんな公平さを教え込まれたスカウトが困惑する場面は、アティカスが狂犬を撃ち殺す場面であろう。その前にアティカスは「マネシツグミは楽しい歌を歌っているだけだから撃ち殺してはいけない」とスカウトに言っている。狂犬病は人に罹患すると今も昔も致死率は100%というおぞましいものである。また、狂犬病になった犬も治療法はないため、本作のように撃ち殺すか、大人しくなった時を見計らって安楽死させるしかないのである。狂ってしまった犬には死という結末しかない。この犬も望んで狂犬病になったわけではないから、無邪気な存在として殺せないはずだが、殺すしかないのである。
その狂犬に相当するキャラクターが、メイエラの父親のボブ・ユーエルである。アティカスがスカウトとジェムを連れてトムの家を訪れる場面では、スカウトとジェムが乗る車の前方からボブが現れる。このボブはおそらく酒に酔っており、明らかに挙動がおかしいのである。この挙動のおかしさこそ、先程の狂犬そのものである。このキャラクターの何が狂っているかといえば、黒人差別をしていることである。そして、娘に暴力を振るっていること(おそらく近親相姦)である。しかも、このボブはそれが問題であるとも思ってすらいない。これぞ狂犬病に罹患した犬が狂犬病に罹患していると認識できないのと同じであり、このボブが迎える結末は狂犬と同様に死である。こういった根っこから黒人差別をしている人間は死なないといけない。ある種の思想弾圧であり、非常に危険な映画ではあるが、本作の製作当時、アラバマ州など多くの州ではジム・クロウ法(ざっくり言うと人種差別を認める法律)が制定されていたのだ。つまり、ボブの行動は法では裁けないということになる。だからこそ、このボブの行く末は刑に処せられるのではなく死なのである。
観客視点に立つなら、当然トムの無罪を願うのだが、黒人が容疑者になった時点で無罪を勝ち取ることは不可能である。少しでも勝てる可能性を感じさせた中に、「あーやっちゃった」という場面がある。トムがメイエラのことを「気の毒だ」と言った場面である。これはトムの本音(父親から暴力を振るわれて、家の中にがんじがらめにされているメイエラを気の毒に思った)だろうが、黒人ともあろう人間が白人様を憐れんだと思われた。陪審員が全員白人男性であることを考えれば、「あー言っちゃった」という感じの失言なのだろう。トムを見つめるアティカスの表情が険しくなるところだけでも十分に分かる。
終盤のアティカスによる最終弁論は、6分半の長回しで撮られたグレゴリー・ペック渾身のものとなっている。今回の裁判では負けるだろうと思っていたかもしれない。でもこういった心の叫びが積み重なって効果は発揮されていくはずだ。そして、当然これは観客に向けたメッセージでもある。南部で黒人差別をしている人たちがこの映画をわざわざ見に来なかったかもしれないが、でも誰かの心を動かすことはできたかもしれない。
トムは裁判に負けたが、あの裁判を傍聴した人なら白人だろうが黒人だろうが、判事も陪審員も含めて、トムがやっていないのは明白であっただろう。そして、同時にボブがメイエラに暴力を振るっていたことや、娘のメイエラが黒人を誘惑したことなどが真実であることも周囲に知られてしまった。たとえ今まで通り生活できたとしても、周囲から冷たい目で見られるのは確実だし、メンツを潰されたも同然だ。そこでボブはアティカスの子供2人を殺そうとしたのだ。ここでブーが助けてくれて、ボブだけ死んでしまうというのは、映画的なメッセージを優先した展開なのでご都合主義的に見えるのはやや残念ではある。
で、このボブに死をもたらすキャラクターがブーである。精神障害を抱える人物であり、序盤から子供たちがあらぬ噂をしてビビっている人物だ。純粋に子供を助けようとした結果、ボブが死んでしまった。精神障害を抱えているから純粋かどうかも一応問題としてはあるが、純粋に子供を助ける正当防衛でボブが死んだってそれは自業自得である。ちなみにブーがボブをどう殺したのかは、スカウトを捉えるショットで影が映るだけなので分からなくなっている(ヘイズ・コードの影響)。
もしこの真相を明らかにしたら、このブーを表に出さなければならなくなる。保安官は「それの方が罪ではないか」とアティカスを諭す。この後すぐに映画が終わるので、アティカスがこの事実をどう受け止めたかは分からないが、相当悩んだだろう。公平であることを信念に生きていて、子供たちにもそれを求めている訳だから。ただ、真相を明らかにすることで誰かが傷つくかもしれない。間違いなくそれは罪なことだろう。
本作において、殺してはならない純粋な存在として出てきたマネシツグミはブーであり、子供でもある。そんな子供たちを殺そうとする存在は死んで当然である。スカウトは子供ながらに社会の不条理さを目の当たりにした。子供たち視点の物語にしても徐々に見える世界の広がっていく様子もきれいに描写されていた。演者の演技も申し分なく、特に冒頭のエルマー・バーンスタインのスコアも見事である。モノクロ映画でも決して色褪せない名作。
音声解説
①<ロバート・マリガン(監督)/アラン・J・パクラ(製作)>
上記2名による対話形式の音声解説。アラン・J・パクラは1998年に亡くなっており、DVD発売に向けてその前に収録されたものと思われる。2人が当時を振り返りながら、映画製作の経緯、セット美術、子役を輝かせるための工夫、製作現場でのプロデューサーの立ち位置、監督に求められる仕事、細かい演出や音楽についてなど幅広く語ってくれる。やや黙って空白になる箇所もあるにはあるが、彼らにとっての感慨深さが滲み出ている。
吹替情報
①テレビ朝日版(1972年11月26日「日曜洋画劇場」)※ソフト未収録
②ソフト版
③PDDVD版
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